
近所のアパートシリーズ。
これも徒歩3分以内の圏内にあるアパート。実はあの曙ハウスからもそう離れていない所にあるのだが、あまり気づかれず、カメラをぶら提げたブロガーの人々も、以外に見落としてしまう物件だ。
でも、ワタシはかなり好きで、この近所をよく通るせいもあるが、通るたびにああ今日も居たねぇと心の中で声をかける。廃屋らしいので、いつ解体されてもおかしくないのだ。
よくあるモルタルアパートで、角地に建っているためか、その角部分が削ぎ落とされたような形になっているのだけがちょっと変わっていると言えばそうだが、あとは何の変哲も無い。
だが、中央部分の樋が錆サビになっていて(ブリキ製なのか?)、その錆色が縦にひと筋、モルタル壁にまで染みて色が付いている。
向かって左側面の屋根伝いの樋は、途中で直角に折れ曲がって用を成していない。
「田毎荘」という名前も、立ち止まってその木片をよくよく見ないと読み取れない。
昭和30~40年代くらいの建物ではないかと思うが、もう御役御免のまま、でも今日も閑かに立っている。
「田毎」と言えば「田毎の月」を連想するが、その名前の由来も知る事も無い。
夜空に月とともに描いてもいいなと思ったけれど、今回はやっぱりあの湿気感を描きたくて、雨に包んでみた。
いつか満月とともに描いてあげるからね。
スポンサーサイト

時間が前後するが、夏に信州の或る小都市に立ち寄ったのだった。
その町の気になるカフェーふうの建物を見に行ったのだったが、そこから暫し奥(というか裏)のほうに行ったところに、何だかおかしな一帯があって、うらぶれたというか、でもすさんだ感じというよりは「キテる」感じの濃いい(笑)昭和のスナック街なのである。
店の造りはどれも安っぽくて高い建物も無く、平屋みたいなのが狭い路地の片側に軒を並べているのだ。向かい側はブロック塀で、ほんとはこの画のようには見えないのだが、まあ画であるからして、塀を取っ払った感じで描いてみた。染みだらけのモルタルの壁が続いているが、すさんだ感じがしないのは、おそらく客の入りはそこそこあるせいではないだろうか、野暮なのだが開き直った底力と暢気さとが感じられる。
蒸し暑い真昼間、この辺りを歩く人は皆無だったし、この小さな町の目抜き通りにさえ、賑わいやひと気というものがほとんど無かった。だが、駅前付近の裏通りにも、歩くと恐ろしい数のスナックが林立しており、どうやら人口の少なさに反して、スナック好きはこの町に多いようなのである。
まあ好いではないか、こういう野草のような場末の町も、それはそれなりに魅力的ではあるのだから。

おそらく川痕であろう、叉路の多い町を歩いた時にあった家を描いてみた。
二叉路の交わる部分に建っているのだが、鋭角の部分はどうしようもなかったと見えて、ただのコンクリ敷きになっていたが、そこが罅割れて少し苔なども生えたりして、そのどうしようも無さが何だか面白い。それを挟む家も、店舗兼住宅なのか、シャッターが降りていて判断しかねたが、変な造りで何処がどう中でくっついているのかよく解らない。だが、外目には大変惹かれる造形であった。
こういう建物はやはり、ぴかぴかの高層建築の町では見られない。
この罅割れた凹の日陰の部分にしゃがみ、吸えるなら(吸えないけど)一本煙草をくゆらせて憩いたいような、・・・ああそんな気持になるのは、やっぱりワタシが変なんでしょうね。

ここのところ急に冷えるようになって、季節の移るのが肌で感じられる。
路地にぽっと点くあかりが、何だか恋しいような。
秋口に川崎の裏町を歩いたとき、こんなふうに小さな路地の両側にごちゃごちゃとスナックや居酒屋がかかたまっている処があった。小さいけれどアーケードまで付いている。この日は祝日の昼間だったからお店は閑散として暗く、シャッターもぴちりと閉まっていたが、平日の宵くちは、常連さんがちらほらと引き込まれるようにやってくるのだろうなと思わせる。看板など新しくなっている箇所も多いが、何となくやっぱり昭和の雰囲気だ。奥の方には「稲庭うどん」の大きな提灯も。
ちょっと温まるくらい、気持ちよく呑んだ後に、つるつるっと稲庭うどん。
そんなのも好かろうて。

或る日の事でございます。
蒸し暑い暮れ方に、私の粗末な部屋の扉を叩いた者がおりました。
扉を開けてみると、そこには見知らぬ白い鬚の痩せた老人が立っていました。
「アナタは陋巷を描いている絵描きだと聞いたが、一枚雨の陋巷を描いて貰えんじゃろうか」
「わかりました・・・」
しかし、簡単に引き受けたものの、一体何処の町をどう描いたらよいか・・・
筆は進まず、私はふらふらと足の向くままあちこちを徘徊し、疲れ果てて気づいてみると、
あたりは薄暗く今にも雨の降り出しそうな気配。ああもう立ち去らなければ、
・・・と、忽然と私の眼の前に、低い軒の翳った建物が現れたのです。
よく見ればぞっとするほどに荒れ果て、屋根も抜け落ちて、草木が内部まで浸食し、それでもてらてらと錆びたトタンの壁ばかりが光り、そして異様なまでの静けさが漂っているのです。
その、暗さの極みのような建物に、何故か心打たれ澄む想いになった私は
必死で素描を始め、何とか描き終えた頃には辺りはとっぷりと暮れ、ぽつぽつと細い雨が降り出しました。
そのあとどうやって家に帰り着いたのか、おかしなことにほとんど記憶がないのです。
ですが部屋に戻った私はその素描をもとに、老人の所望する雨の画を描きあげたのでした。
しかしその後、いくら待っても老人は現れなかったのです。
私の手元には、渡せないままの何処ぞの場末の、あの雨の画が今でもずっと残してあるのです。
(物語はふぃくしょんです。たは~*)
(帰った記憶がないのは、帰りに飲んだくれたからだとか、老人が来ないのは死んじゃったんでしょとかそういうツッコミは、・・・あ、入れてもいいすよ~)

折々拝見させて頂いている女性建築家、大内山さんのブログ「大内山雑記帳」に「防犯」というエントリーが出されていて、何だか考えさせるものがあった。というのは、この十年で住宅設計に於ける施主の防犯の意識が、嘗てとは全く様変わりしてきた・・・という内容であったから。
そうなのだなぁ。私が下町や陋巷を歩き始めた昭和の末頃は、それでもまだまだ路地に入ればあけっぴろげな生活が溢れていた。佃に行ったときなど、初夏のせいでどの家も玄関開けっ放し、座敷でごろ寝のオジサンやテレビの音、コドモの遊び声もこぼれ出ていたのだった。
だがもうそれは刻々加速度的に無くなっていっている。
過剰なほどの警戒を、否応なく強いられる場面が日々多くなっている。
町歩きをしていると、不審な目を向けられるというのもよく聞く話だ。
尾久を歩いていて、こんな平屋があった。
無防備で、狭くて小さくて古いけれど、平屋はいつも私に、失くしてしまった色々なものを思い起こさせる。長閑で暢気なあけっぴろげなあの時代は、もう二度と戻ってはこないのだろうか。

理由がどうのということよりも、見た途端ぐうの音も出ないような、
そんな、ハラワタにずいと響くような建物と出会うことがある。
それこそがおそらく、ワタシが陋巷画日記なるものを飽きずに描いている
根本の原動力だろう。
金松園という、看板の文字も錆と風化で剥げかかった、
おそらくは嘗て中華屋だったと思われるこの建物も、そのひとつ。
荒川区の街道筋にあったもの。今はどうであろうか。
この堂々たるやさぐれ方には、どうにもこうにも言葉はあてはまらない。
そして、あまっちょろいワタシの感傷など、あえなく粉々にしてしまう、
そんな力を持った廃屋なのであった。
*しばらく夏休みのため、更新はお休みです。
8月にまた再開の予定です。

木村荘八の「東京今昔帖」(昭29)を読んでいるが、趣深い内容である。
所々入っている挿画は言わずもがな。エッセイ集であるが、東京のいまむかしの建物、風俗、気質、文化といったものの変遷を語って読み飽きない。
珍しいことに、巻頭に幾葉かの町の写真がある。その説明のなかに「廂合」という言葉があり、(しやあひ)とあった。
初めて出会う言葉だったが、字面で意味はわかる。添えられた写真は湯島天神下付近の家々。木造の二階家の張り出した物干し場が隣の家のそれと、まさにくっつき合うように(否 本当にくっついているようにも見える)造られている。向こう三軒両隣とはよく言ったものだ。まさにそんな、隣近所との接触の多い、互いに助け合っていたであろう暮らしが目に浮かぶ。勿論好いことだけではなかったろうが、今よりはずっとそうしたものが緊密だった時代。
泉鏡花の作品中ではこの言葉は「ひあはひ」というルビが振られているようだが、どちらの読み方にせよ既に現代では死語である。
ワタシの乏しい町歩きのなかで、かすかにこの言葉を喚起させるにもっとも近いのは、今は無き勝鬨の長屋群かもしれない。木村荘八の示したものとは、厳密には異なるかもしれないが、庇や軒の並びの近さは此処が一番(見た中では)接近していた。
で、無くなってしまったこの言葉とこの町のたたずまいを想いながら、画にしてみた。
幻と化した風景には、合掌するしかできないのだけれど。

イラストの仕事が無事終わり、9月に刊行予定です。文庫本のカット15枚ほどですが、普段めったに描かない人物イラストなので、上手くいくかどうか・・・と思いましたが、準備期間がたっぷりあったため、慌てないで描けました。ええ~こんなん描くの?という感じですが、また本が出来ましたらご報告致します。
で、久々陋巷画日記。梅雨時にふさわしい湿り気たっぷり(笑)の路地。。。
中小規模の商店街にはよくあるプラ花の飾り。あの安っぽい色合いが、何となく好い。
こじゃれたナントカストリートには絶対アリマセン。
歳末になって、餅花っぽい玉飾りに一新したりすると、それはそれは好い感じ。
今の季節は七夕っぽい飾りになっているとぐーです。
少々寂れた商店街というのは、そこから入る細道なども非常に惹かれるもの。
ついつい右に左に、丁寧に辿ってみたくなるのです。
ここは舗装もされていない路地で、薄く緑を刷毛で塗ったように苔が生え、ほの暗さが何とも印象深い処でした。
プラ花の徒花的な虚のあかるさと、しっとり湿った薄暗い路地、
そんなものを孕んでいる町は、やっぱり懐深い気がするのです。

町歩き愛好者にとって、以外に盲点なのが自分の住んでいる町の付近、ということが往々にしてあったりする。ワタシにしても、少し北の向島や京島などへ行くときは、少しばかり余所者散歩者の気分を携えて行くことが出来るのであるが、上野などは以外に近すぎてそうした余裕を持った目で見ることが少なかった。
だが、時々利用する台東区の循環バス「めぐりん」に乗ったりすると、知らなかった道を随分通ったりするせいで、窓外の景色におや・・・と気づかされたりするのだ。
そんなこんなで、昨年東上野一帯を歩いてみたのだが、思わぬ拾いもの物件?がかなりあって愉しかった。そんなひとつがこの二軒長屋。
屋根の高さももぴったり同じにくっついているのだが、ブルーと薄いクリーム色の2色にきっちり分かれていてチャーミング。トタンもわりと綺麗だったから、改装しつつ永らえてきた感じがして微笑ましい。もっとN的に抽象化して描いてみたいような逸品でありました。

久しぶりの陋巷画日記です。
ちょっと買い物があり神田に出かけた先日、周辺をぶらっとしてみたのですが、相変わらず古い建物は加速度的に無くなっている感じでした。解体途中や既に更地となって、おそらくは高層物件ができるのを待っている所が目立ちます。
一口に神田と言ってもかなり広い地域で、神田という地名を冠した、神田紺屋町、神田北乗物町、神田鍛冶町、神田美倉町、神田美土代町、神田錦町など町名を見ているだけでも愉しいのですが、今はその名前のイメージは喚起できないところがほとんど。ちょっと寂しい気がします。
それでもふっと小路を曲がると、こんな感じの家並に出会うこともあります。
でも此処も、ちょうど隣が更地になったためこんな風に見渡すことができたという一角。
左端はパン屋さんだったようですが、今はシャッターが固く閉じている様子でした。
それでも昔懐かしい神田に会いたいと言う方は、ちょうど来週から素敵な展覧があります。言わずもがなのオーライタローさんの個展@ギャラリーツープラス。此処へ行けば、思わず微笑んでしまうような、なつかしくて味わいのある神田の建物に会うことが出来ます。是非足を運んでみて下さい。勿論ワタシも参ります~。詳しくはこちらをクリック。