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N的画譚

N町在住、陋巷の名も無き建築物を描くneonによる、日日の作画帖です。
抽象の度合



ワタシの画は、言ってみれば具象でも抽象でもない、その間にあるような画なのであるが、それがワタシのオリジナリティでもある、だろう。
見たままを描くだけでは何だか物足りない。作品の下図としてのスケッチ、その鍛錬は必要と思うが、作品がそこで終わるのはイヤなのだ。だがこれはあくまで自分の描く画についてである。他人の描く画では、いくらでも好きな「見たまま画」はある。・・・多分、きっちりしたことが苦手なドンブリ勘定的な性格も、自分の描き方にはかなり関係している気がする。

アップした画は、実は町屋付近の京成線のガード下をモチーフにしたのである。なかなかそう言われないと解らないと思う。向かって左側がガード。右側がごみごみした陋巷の建物であった。
自分としてはこのくらい抽象度を上げた作品を、常に描きたい欲求がある。無駄を削ぎ落としたフォルム、色の洗練といったものにどうしても憧れがある。(勿論この画が必ずしも成功しているとは言えないが。)

しかし一方で「陋巷画日記」シリーズのような、具象に近く、しかしちょっと抽象化された画は描きやすく、また描いていて愉しい。描き馴れてきたこともあるし、見る側も受け入れ易いだろうと思う。

どちらもやはり否定できないワタシの要素である。この抽象と具象の合間を、これからも行ったり来たりするであろう。描きやすいほうにおもねることはしたくないが、描いていて愉しいことは大切だ。必ず観るひとにもそれは伝わるから。でもいつも何処かで、遠い自分の画の理想型を求めながら、ずっとずっとこれからも描いていたいと思う。
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ほろ酔いゲート



そろそろ寒さも沁みてきて、ぬる燗の季節がやってまいりました。
そんな時は仕事帰りにこんなゲートをくぐりましょう。
今日はあの店、いやいやこっち。。。
でも深酒はほどほどに。
ちょっとほろ酔い、気分好く、都会の空にもほんのり三日月、
色々あるけどあしたがあるさ、そんなお酒で〆ましょう。
浮地 玉ノ井



向島界隈の旧町名が残っている地図を見ると、鳩の町のやや南に「向島請地町(うけちちょう)」という一角があり、その地名が気になっていた。もしかして「身請」から来ているのか?などと思ったりしていたのだが、地元の方にきいてもはて・・・とめぼしい解答は無かった。

家にある荷風の著作を読み返し、そして古本の木村荘八(墨東綺譚の挿画を描いた画家)著、「女性三代」という随筆を読み返していたら、その答えが出ていたのである。

それによると「請地」とは「浮地」のことで、つまりは埋め立て地という意味合いなのだそうだ。特にこの玉ノ井辺りもやはりその「浮地」であり、塵芥の上に無秩序に家を建てたらしい。その地盤の悪さは言うに及ばず、墨東綺譚に出てくるあの溝川はすぐ水が溢れてしまうのだった。墨東綺譚本文にも、「ここはもともと埋地で、碌に地揚げもしないんだから」と、お雪の抱え主が語る場面が出てくる。

今現在はそうした土地の持つ翳りや無気味さは殆ど感じられない町と化してはいるが、やはり歩けばその路地の複雑さには迷ってしまう。そして知らぬ間に、余り陽の当たらぬ細い地べたの道や、昭和の匂いのする平屋の家並みの前に出たり、装飾のある窓ガラスに出会ったりするのである。
墨東の陋巷アパート



<墨東篇>引き続き。

いやはや吃驚したのである。
白鬚神社の裏手に、こんなアパートが2棟毅然と建っていたのを見たときは。。。

かなり大きな建物で、もとはこの周辺に6棟ものアパートがどうやらあったらしい。現在残る2棟のまわりは駐車場で、すっかり見晴らしがきくせいもあり、辺りを睥睨するような圧倒的な存在感を放っていた。

グレーのモルタル壁は染みだらけだが、階段の造作も面白く、またかなり住んで居られる気配もあって、現役アパートとして堂々生き残っているのだ。近くにある銭湯の煙突から煙が出始めると、もう昭和の匂いが芬々としてくる。でもこの煙突、実はちょっと先っぽが何故か曲がっているのだ。画ではまっすぐにしておいたのだが、実物を見ると何だかくすっと笑いを誘う、下町の好い風景なのである。
骨太なる叙情歌



陋巷画日記、<墨東篇>連続でいきます。

十代の頃から永井荷風の「墨東綺譚(正しくはボクの字はさんずいが付く)」が好きだった、カワリモノの私であるが、前回の鳩の町のように纏綿と花街の情緒の遺る雰囲気だけが墨東の魅力であるとは、到底言えない風景に今回も幾度も出くわした。

そのひとつが今回の町工場の風景だ。
鳩の町から玉ノ井に向かう頃になったら陽ざしがすっかり翳り、辺りは暗くなる一方。墨田のたぬき湯という銭湯を目指していたら、この工場が忽と薄暗がりに現れた。
かたちは非常にシンプルで、全面トタンの継ぎ接ぎ(ほぼ8割はブルー)。そしてところどころひび割れた窓ガラス。そこからは中の電球の光も漏れる。そしてその屋根の頂には、何とも力強い太い煙突が。思わず言葉をなくすほど心打たれてしまった。

このあたりには中小の工場がひしめき、寡黙な職人たちが暗い中で黙々と働く姿が垣間見える。そうした姿は何故かとても力強いのだ。声なき労働歌を聴く想いがする。
そんな骨太の叙情を、この町は低音で奏で続けている。
うずもれたきらめき



久々に陋巷画日記。

タテモノのカタチ展が終わって、秋日和の日に町歩きに出た。浅草神谷バーを始点に、目指したのは久しぶりの墨東。(同好の士とツアー詳細はこちら参照。)余りにオキマリぽいのでずっとご無沙汰だった鳩の街と玉ノ井周辺を徘徊。

ほとんど無いことも覚悟していたからか、思ったよりまだ建物も痺れるものがちらちらと遺っており、改めて墨東の深さを思い知る。寂れてひっそりしているが、建物の意匠の繊細さや、アールのついたバルコニーのやさしさに、小さな宝石のようなきらめきを感じてしまう。すれちがった品のよい、腰の曲がったおばあちゃんが「賑やかだったですよ、とても」。。。

歩きまわった時間も長かったせいか、メモリーの容量いっぱいになるまで写真を撮ってしまい、その中からどれを先ず描くかと迷いに迷ったが、やはり一番陋巷チックな、タイル円柱のあるこの路地を描いてみた。
ミニアチュール画本-その3



ミニアチュール、という呼び方を初めて私の画にして下さったのはオーライタローさんで、それまではそんなコトバさえ知らなかった。厳密には、もっと細密な画を指す呼び方なのだろうが、この言葉の持つイメージに惚れてしまった。精緻で、宝石のようなイメージ。しかし描きためていた小さな画たちは、やはりおよそそこからは遠い気がした。もう少し、ひとつひとつに時間をかけて、その完成度のようなものをアップしたい。

画像のようなミニ彩色画を、もっと納得いくまで練り上げ磨き上げたものにして描きためる、それがひとつ。

それと、意外といつも好評な「陋巷画日記」の線画シリーズ。これも本の中の一部に入れてみようかなと思っている。その部分はできたら紙も変えて、ちょっと生成な色の、ざらっとした感触のもの。こちらは今までの感じを継投し、字と組み合わせた走り描き的なもの。もう少し、本にすることを意識して、でも気楽な感じで。

2冊分冊にすることばかり考えていたのだが、いや、両方とも私の要素だし、一緒にしても好いのではと最近思うようになってきた。
デザインや装幀も、心強い味方がブログのおかげで何人か居てくれるので、できるところまでは自分たちでやってみたいと思っている。
漸く数年がかりで此処まで纏まってきて、さてあとは描きためるだけ。

前置きが長くなってしまいましたが、今後このブログにも多少本作りを意識した作品もアップしていきたいと思っています。(勿論大きい画も描きますが。)
道は長いし、完成がいつになるのかは見当がつかないけれど、そのプロセスこそが醍醐味なわけで、愉しみながらこつこつ細々淡々とやっていければ好いなと考えています。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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