
そこは廃れた小さな劇場で、夜になって灯りが点っても大したひと気もなく、けばけばした色のネオンも却って寂しさを掻き立てるようなところがあった。おそらく次回この町に来るときには、建物ごと無くなってしまっているだろう。建物が無くなると、人びとの記憶からも失われていくのは世の常だ。
そしてそういう町を訪ねそういう建物に出会い、自分の画のなかに再生させる。
しかし私の場合必ずしも事実通りの再生でもなく、勿論記録でもない。そして限りない哀惜の念はあるけれど、その建物の保存を声高に叫ぶものでもない。
私が惹かれるのは大体において、保存運動が起きるような建物ではなく、逆に町のなかでひっそりと隠れるように息づいていて、時には疎外されるような憂き目に遭っているものもある。無くなるときはあっけなく、更地ともなればもう誰も振り向いたり立ち止まったりすることもない。
だが、もう実際に見ることができなくなった建物を想うとき、何故だか私の中で初めて顕ちあがるものがある。実体を持たなくなったことで実景から解き放たれ、自分の中で再構築できる自由さのようなものが生まれるのだろうか。気恥ずかしい言葉を使えば、滅ぶことで永遠に回想できるのである。だからといって勿論滅びの美学などと言う気はない。滅び自体が美しいとは思わないから。ただ、自分の中の回想では、その建物は色々な意味に於いて魅力的で、それらを少しでも魅力的に描くためには、自分のちっぽけな残りの全人生を費やしても、何ら後悔することはないだろう。
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