
もう20年以上も昔になるが、一度だけ場末のスナックに入ったことがある。
その頃日本画を習っていて、新年会か何かの帰りに、先生含めて弟子10人弱で、スナックに行こうということになった。私はまだはたちそこそこだったので、よほど帰ろうかと思ったのだが、「まあたまには社会勉強だから」とか何とか周囲に言われて連れて行かされたのだった。
それまで先生に関しては、謹厳実直な方で、お酒は好きでおられるがそんな場末の飲み屋へ出かけるような感じには見受けなかったので、私はちょっとびっくりしたのだった。お世辞にも綺麗とは言えない桜木町のどこかの路地に入って何軒か行ったところに、先生行きつけのちっぽけなスナックがあったのである。皆でわいわい入ると、ママさんは手慣れた感じに「アラ先生いらっしゃーい」。
他の人たちも勝手知ったる様子でカラオケに興じたり飲み始めたり。酒と煙草の入り混じった匂い。歓声や嬌声。その頃はまだ若かった私は、大して飲めなかったし、初めて見るこうした光景にただ呆然としていた記憶がある。
そのうち先生はマイクを握ると大きな声で歌い始めた。それは流行歌などではなく、黒田節。
先生はいつもお酒が入ると黒田節なのよ、と古株の弟子の方が私に耳打ちする。終わるとわーっと拍手。
満面の笑顔でママさんの祝福を受ける先生。・・・
それから暫く経って、とある知人にその話をして、「何であんなお店に行って飲んだりするんでしょうね。先生の奥さんのほうがよっぽど美人なのに・・・」と言うと一笑に付されて、「そういうモンダイじゃないんだよ」と言われた。そうなのかー。オトナの世界は解らないな~とその頃は思っていた。
あれから随分の年月が流れて、先生はもう既に鬼籍に入り、あの小汚い店も無くなったかもしれないが、充分「オトナ」と言える年齢になってしまった今、そういう小汚い店のある町を描いている自分がいる。あれ以来スナックには入ったことは無いけれど、たまに場末の閑とした町で、ぽつりと灯の点っているいる店を見たりすると、ちょっと扉を開けてみたいような気にならなくもない・・・こともある。
スポンサーサイト
| HOME |