
解りきったことではあるが、年々古い建物は消失してゆく。
まだまだ使えるだろうにと思う立派なものが解体されたり、保存の声にも拘わらず行政によってそれが行われる場合もあるし、火災や天災によって無くなることも、荒れ果てて崩おれるように消えていくものもある。
東京にはもはや見るべきものは無くなったという言葉も、最近はよく耳にするようになった。
「陋巷」などという言葉を画のタイトルに使ったりすると、
「もう東京には陋巷などは無いでしょう」と言われたりする。
そうだろうか。
昨年晩秋頃から町工場を画題にと思い、そうした場所を拾うように歩き始めたが、
都内にもまだ多くの心惹く建物が、(ワタシ的には)ひっそりと埋もれるようにあちこちに残っているのに驚かされることが余りに多いのだ。
それらは本当に名も無き物件ではある。
個人宅や極小の町工場、倉庫や商店、そして社会から忘れ去られたような施設。。。
足で踏みしめ掌で触れながら、紐解くように丁寧に町の襞を辿って行けば、
町もどこかいざなうように、知らなかった小路、知らなかった建物に巡り合わせてくれる、
そんな気さえするのだった。
*****来月いっぱいまで、画はお休みして
過去に撮りためた資料用の写真をアップしています。*****
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過去の幻影のようなものを、ふと身近に感じ取ることがあると言ったら笑われるだろうか。
それはもう理屈ではなく身体の感覚に近いもので、
幼い頃から何となく意識していたことだ。
おそらくその世界は遠いものではなくて、
すっと吸い込まれるように入っていける、そんな現世とは紙一重のところにあって、
でもいつもはそんなことは忘れている。
でもいつでもそれはすぐ傍にある。
Hという町に初めて降り立った時、私のなかにあったのは
帰るべくして帰り着いたような感覚にも似ていたのだった。
以来、ずっとずっと
その曖昧模糊とした感覚の色や匂いを画面に写し撮りたいと
そう思い続けているのだった。
***来月いっぱいまで、画はお休みして
過去に資料用に撮りためた写真をアップしています。***
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