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N的画譚

N町在住、陋巷の名も無き建築物を描くneonによる、日日の作画帖です。
たとえば、坂口安吾













・・・問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。
汝の命と引き換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝みずからの
宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝
の独自なる手により、不要なる物を取り去り、真に適切に表現されているか、どう
かということだ。
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         ------- 坂口安吾「日本文化私観」より抜粋


  

   *本文と画は余り関係はアリマセン(笑)。
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たとえば、萩原朔太郎











散歩者のうろうろと歩いてゐる
十八世紀頃の物さびしい裏街の通りがあるではないか
青や緑や赤やの旗がびらびらして
むかしの出窓に鉄葉(ぶりき)の帽子が飾つてある。
どうしてこんな情感のふかい市街があるのだらう
日時計の時刻はとまり
どこに買い物をする店や市場もありはしない。
古い砲弾の砕片(かけ)などが掘り出されて
それが要塞区域の砂の中でまっくろに錆ついてゐたではないか
どうすれば好いのか知らない
かうして人間どもの生活する 荒寥の地方ばかりを歩いてゐよう。

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          -------- 萩原朔太郎 「荒寥地方」より抜粋



 (本文と画はあまり関係はアリマセン)。。。
ぼろぼろ海岸












繰り返しくりかえし私の中に想起される風景というものが幾つかあって、
H町の遊廓街やこの侘しい海際の景色がそれなのであった。

此処は本当は河口で海とは言い難いのであるが、
京浜の湾を見て育った私にとってはほぼ海のイメージはこれなのであった。

嘗ては漁業も営まれた小さな岸には
捨てられた貝殻が真っ白に砂を埋めて、その上に辛うじて立っているような
船着き場や半分水に漬かったトタンの船小屋が累々と並んでいた。

今はすっかり整備されてあのぼろぼろの風景は
無かったことのようにかき消されてしまったが、
私には忘れようとしても忘れられない景色なのだった。

萩原朔太郎の「荒寥地方」「沿海地方」といった詩が浮かぶような
すがれた、小汚い、場末の芬々たる眺めであったがいつもそれらは
私の傷みを吸いとって、孤独を脆弱なものから磨きだし、描くことによって
遠い空の彼方に解放してくれるような気さえしていたのだった。
幻風景の再構築











ひと月以上、もやもやと考えてばかりいて、
画の向かう方向をあれこれと逡巡していたが漸く
自分のなかでハッキリしたタイトルも決まり
来年はここ数年とはまた少し違ったアプローチで
個展を纏めてみようかと
やっと思い至った。

そして嘗ての写真をまた掘り起こし
失われていった風景たちを再構築しながら
何処かで見たようで
でも何処にもない自分の風景を
作り上げていきたいと思っている。
松本竣介展@世田谷美術館
IMG_6920 (2)










待ち焦がれていた松本竣介の展示に漸く行くことができた。

今回の展示は36年の彼の生涯の作品をほぼ網羅する大きな展示で、
出品点数も多くて素晴らしいものだった。

いつも彼の作品の前に立つと、本当に自分が打ちのめされるような感覚と、
そして限りない憧れの感情が止めようもなく溢れてしまう。

特にやはり市街の建物を描いたものが好きだが、
主要な作品がずらりと並んでいて、思わず溜息が漏れる。
ごく近くでそのマチエールの部分部分を眺めると
本当に彼の息遣いが傍で聞こえるような、そんな画面なのだった。

グラッシと呼ばれる技法で、薄い絵の具を何度も塗り重ねて得られる
不思議な透明感、色彩感は、彼ならではのもの。
本当に彼の色彩センスというものは天賦のものだと心から思う。

いつも沢山の沢山の課題を私に呈してくれる
大事な遥かな先生なのだ。

展示は年明け1月14日まで。
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