
職人、が好きである。
そして職人の人生というものが好きである。というより、もうそれは殆ど届かない憧れかもしれない。
毎日毎日寡黙に同じ事を繰り返している。
かのようにも見える。がしかし、職人にとっては同じではない筈だ。
毎日の作業のなかに精進の心があり、研鑽があり、僅かずつでもそこに深化があり、発見すらあるのだと思う。つまり、日々新しく向き合っているのだと思う。それを喜びとしている。でなければ続かない。
手を使う仕事というのは、一見そうでもないようで実は、精神的な世界と深く関わっていると感じる。
老練な職人は頭の中で考えるより感覚で動く。
感覚を磨くことが全てであるのかもしれない。
葛藤や失敗も己をみつめることで収め、そうやって日々孤と向き合い、個を超えてゆく。
手の中から生まれてくるものは、世の流れや風評には縁がない。そして揺るがない。
簡素で地味で、淡々とした人生。それで好いと思っている。
それが好いと思っている。(勿論みんなが皆ではないだろうけどね)
坂口安吾が「文を書くなら、その一文を命と引き替えても書きたいか」というような事をどこかに書いていたが、まさかそんなところまでは行かなくとも、覚悟のようなもの、どうしてもどうしても作りたいかどうかという心、そう聞かれたときに「どうしても作りたい、ただただ表現したい」という心、
それを持っているかどうか。それを為すために、その創意工夫のために一生をついやすかどうか。
・・・でも、さういふものに、ワタシもなりたい。(無理だけどね)
(*画は過去の筆すさび。)
≪この記事へのコメント≫
>何だかこの画は昔のなのに、捨てないでとってあったことからして、まあ気に入っているのかもしれません。水墨っぽいぼかしの線描きなんていうのは、ちょっと日本画の常套手段的な手法ではありますが。でもここの風景とは合っている描き方にも思えます。
出遅れましたがこの絵好きです。今とは違った趣を感じます。
で!neonさんも密かに気に入っていると思ったんですよね~。
で!neonさんも密かに気に入っていると思ったんですよね~。
>いや、それがですね、思うに、
自分の感覚を追い続け、表現を苦心していき、こんな個人的なもの誰も理解してもらえないかもしれない、と感ずるのですが、それがそうではないのです。自分の深い気持ちを偽り無く表現したものというのは、どんなに個人的な動機やプロセスでも、きっと見た人に響くものなのですよ。
そんな時いつも想い出すのはムンクの「嫉妬」という画なのですが、あんなに個人的な人間の暗部を描いた(多分作家自身の心の表白であるのですが)ものが、何故に心打ち、人びとを寄せ付け、そして今尚名画として飾られているのか。おそらく人間、自分の心の中にあるものしか表現できないのです。見せかけの格好良さではすぐに忘れられます。心から表現したいと思い、そのために無心になっていけばそれは偽り無き作品であり、逆に多くの人にも訴えるものとなる、と。ワタシはそう信じているのです。
そして職人という生き方の根本には、どんなものを作っていようと、おっしゃるように「誇り」というものがありますね。これが支えているからこそ、の揺るぎなさなのでしょうね。
自分の感覚を追い続け、表現を苦心していき、こんな個人的なもの誰も理解してもらえないかもしれない、と感ずるのですが、それがそうではないのです。自分の深い気持ちを偽り無く表現したものというのは、どんなに個人的な動機やプロセスでも、きっと見た人に響くものなのですよ。
そんな時いつも想い出すのはムンクの「嫉妬」という画なのですが、あんなに個人的な人間の暗部を描いた(多分作家自身の心の表白であるのですが)ものが、何故に心打ち、人びとを寄せ付け、そして今尚名画として飾られているのか。おそらく人間、自分の心の中にあるものしか表現できないのです。見せかけの格好良さではすぐに忘れられます。心から表現したいと思い、そのために無心になっていけばそれは偽り無き作品であり、逆に多くの人にも訴えるものとなる、と。ワタシはそう信じているのです。
そして職人という生き方の根本には、どんなものを作っていようと、おっしゃるように「誇り」というものがありますね。これが支えているからこそ、の揺るぎなさなのでしょうね。
こんばんは。
職人さんの仕事に揺るぎが無いのは、「これは人の役に立つものなのだ」という確信がある事も、ひとつの理由かも知れませんね。
表現をする人は、「これを自己の中にとどめて掘り下げて行くのか、それとも世間に問うのか」という葛藤も加わると思います。
自分の感覚を何処までも追うと、とても他人には理解出来ないだろう・・しかし、我と彼との渚にこだわりすぎると、まるで偽物になりやぁしまいか・・・・。
そんなこと考えるのは、僕がいつまでも子供だからでしょうか?
職人さんの仕事に揺るぎが無いのは、「これは人の役に立つものなのだ」という確信がある事も、ひとつの理由かも知れませんね。
表現をする人は、「これを自己の中にとどめて掘り下げて行くのか、それとも世間に問うのか」という葛藤も加わると思います。
自分の感覚を何処までも追うと、とても他人には理解出来ないだろう・・しかし、我と彼との渚にこだわりすぎると、まるで偽物になりやぁしまいか・・・・。
そんなこと考えるのは、僕がいつまでも子供だからでしょうか?
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